旬彩もろきち

料理研究家や料理人、料理を愛する人のために、食の魅力や食文化の知識を発信します。また、飲食店経営のための経営学的知識や、ワンランク上の料理をするための科学的知識もあわせて紹介します。

ペルーで生まれた最先端和食~ニッケイ料理とニッケイフュージョン料理~:食文化講義4

こんにちは、morokitchです。

今日はペルー料理と和食の深~いかかわりについての記事を書くことにしました。

 

さて、皆さんは世界の美食家の注目を集めている『ニッケイフュージョン料理』という新ジャンル料理をご存じでしょうか?これは、世界美食国ランキング1位を獲得したペルー料理と我が国日本の伝統和食とが融合した最先端料理です。

ペルーで最も美食家に愛されているのが日系3世のツムラ・ミツハルシェフによるMAIDOでしょう。

www.theworlds50best.com

MAIDOはThe World's Best 50 Restaurants 2019の10位にランクインしている超有名店で、ジューシーに焼き上げた鱈を味噌とナッツで和えた料理や、ウニライス、50時間かけて作った牛ショートリブ、豆腐チーズケーキアイスクリームなど前衛的な和食とペルー料理のマリアージュが楽しめます。

では、このようなニッケイフュージョン料理はいかにしてペルーで醸成されたのでしょうか?時代を1910年にまでさかのぼり、日本の移民がペルーで守り続けていた和食と、それがペルーの政治や文化に与えた影響から答えてみましょう。

ペルーにみられる料理の種類

まずは、ペルーならではの料理をジャンル分けしましょう。ざっくりと分けて下記の4種の料理が見られます。

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ペルー料理の進化・拡大の過程

まず、ペルー料理は古くからペルーで食べられている伝統料理です。魚を角切りにしてレモン果汁で締めたセビーチェという料理や、牛の心臓(ハツ)を唐辛子ベースのタレに浸けて作ったアンティクーチョ、南瓜をつぶして揚げて黒糖ソースをかけたピカロネスというおやつなどシンプルなものが多いです。

※さらに詳しく分けると真の伝統料理と1521年にスペインがインカ帝国に侵攻してから生まれた西欧風のクリオーリャ料理、三角貿易が活発になってから流入したアフリカ系ペルー料理に分けることができますが、ここでは同一料理として扱います。

そして、ペルーに定住を始めた中国人が広めたチーファという中華風ペルー料理。もともとペルーも中国も肉食文化があったので融和しやすく、かなり早い段階からペルー人に認められていきました。輸入コストの高い本格中華ではなく、ペルーで手に入る食材を代わりに使うことで作られているのが特徴です。初めにペルーで開店した中華料理屋の店名がチーファだったことからそれ以降に開店したあらゆる中華料理全般がチーファと呼ばれるようになったんだとか。

ここからが、今日の本題。

ニッケイ料理は、ペルーへ渡った日本人の子供(日系2世)が作った料理です。彼らは日系1世の親が作る日本料理の影響を強く受けつつも、自分自身はペルー人として生活しており、自然と日本とペルーを融和させた料理を作ることができました。ロシータ・ジムラによる薄切りのタコをペルーの紫オリーブソースで和えた「プルポアラオリーボ」を始めとする料理が代表的です。

そして、ニッケイフュージョン料理。これは大きく2種類に分けることができます。

1つ目は、日本やペルー日系人の板前がペルーに渡って作り上げた高級志向のフュージョン料理。寿司にみられるような高度な包丁技術や洗練された色彩感覚をペルーに取り入れたものになっています。

2つ目は、ニッケイ料理やニッケイフュージョン料理のブームに乗じて日本で料理修行をした日系2,3,4世らが作り出した大衆向けのフュージョン料理。今や日本文化ともいえるようになったラーメン、カレー、丼といったようなメニューです。「高くて量が少ない」高級志向のフュージョン料理と「安くて量の多い」ペルー料理の中間の選択肢である「そこそこの値段でしっかり食べられる」を提供したという点が特徴でしょう。

これらを図示すると下記のようになります。

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新しいペルー料理と和食との歴史的な関わり

 ニッケイ料理の誕生経緯:日系1世が守り抜いた和食の神髄

大まかな分類はわかっていただけたでしょうか。まずは、ニッケイ料理の誕生経緯を見てみましょう。ニッケイ料理は、先ほども述べたように『ペルーへ渡った日本人の子供(日系2世)が編み出した料理』です。

ところで、どうして「日系」と呼ばれる人たちが誕生したのでしょうか?

1899年4月3日に初めて日本人移民がペルーに渡りました。彼らは半奴隷的な苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者の代わりに雇われた契約移民です。当時、世界で砂糖が貴重な調味料として認識されていることもあって、サトウキビの栽培とその製糖に膨大な需要があったのです。1900年代の日本はまだ貧しい国でしたから、ペルーへの出稼ぎで大金を稼ぐことも可能だったのです。

彼らは「日系1世」と呼ばれ、食文化の違いに悩ませられながらもペルーで和食文化を保ちました。農場では干し肉なども配られましたが、肉食を禁じられている仏教徒はそれをかたくなに口にせず、来る日も来る日も塩がゆのみを食べていたそうな。口にするとしても、水で戻してから加熱調理するという方法を知らなかったため、固いままの肉を炙って食べることしかできなかったようです。日系1世にはペルーの食文化に否定的な人が多く、見慣れぬ食材避けて和食を食べることに苦心していました。

しかし、日本から持ってきた醤油や味噌も底をつきてしまいます。それを契機に、饅頭、大福、汁粉、餅、最中、羊羹、日本酒、うどん、そばなどを扱う小売業者も現れました。他にも、日本の野菜の栽培まで始まったそうです。世界の反対側のペルーでもしたたかに生きようとする日系1世たちの精神力には目を見張るものがありますね。

このようにしてペルーで守られた和食ですが、ほとんどペルー人の口に入るものではありませんでした。あくまで、日系1世が生粋の日本人であるというアイデンティティを保つために生産消費されていたのです。

 ニッケイ料理の誕生経緯:ペルー政府が生んだ料理と日系2世の活躍

日系2世は日系1世よりも恵まれた環境で育ったといえます。

2世は1世ほど日本へのこだわりはなく、ペルーの食文化にも抵抗なく慣れていきました。また、教育環境もより整っており、スペイン語を使いこなして現地のペルー人たちと関わるなかで、多少の違和感はあれど自分自身をペルー人として疑うことなく成長したのです。一方で、家庭内では1世が作る和食を口にしていましたから、和とペルー両方のエッセンスを同時に摂取した世代といえます。

彼らの料理が注目を浴びるようになったきっかけは食糧問題にありました。

1950年頃に首都のリマへの労働機会を求めた大規模な人口流入が起こりました。これに伴い、地方の低所得者がリマ周辺を不法占拠して住み着いてしまうという現象が恒常化しました(バリアーダスと呼ばれる)。ペルーはそれまで肉を中心とした食生活が送られてきましたが、これをきっかけにたんぱく源の不足が発生しました。

この状況を案じたペルー政府が魚介類の消費拡大運動をおこしました。これまで活用されてこなかった水産資源に注目したのです。そこで白羽の矢が立ったのが日系2世の料理人たち。彼らは日系1世の食教育もあって包丁技術に長け、魚の扱いにも慣れていました。日系2世たちは、その技術を以てペルー人の口に合った魚介料理を次々に世に提示していったのです。先述のプルポアラオリーボ(蛸の薄造りにオリーブソースをかけた料理)や、ティラディードのような刺身に唐辛子ソースをかけた料理もこの時期に生まれたといわれています。

こういった新しいペルー料理は、世界の美食家の注目を大いに集めました。1970年代の北米での和食ブームのあおりも受けながら、ニッケイ料理は急激にその文化的価値を高めたのです。このように、ニッケイ料理はペルーにおける移民の和食から単線的に派生したのでした。

ニッケイフュージョン料理の登場

一方で、ニッケイフュージョン料理は、ペルーに渡って変容したニッケイ料理と生粋の現代和食が再接触することによって生まれたものです。

高級志向のニッケイフュージョン料理がそのはしりで、先述のMAIDOのツムラ・ミツハルシェフ、HANZOのカスガ・ハジメシェフ、アメリカやメキシコにも支店を広げたディエゴ・オカシェフの3人が特に有名です。板前がペルーに渡って現地の食材で料理をするというのが典型ですが、続々とペルーでニッケイフュージョン料理を作る料理人が登場するにつれて一般ペルー人にも板前修業を乗り越えて料理人となるものも現れました。こうしてニッケイフュージョン料理は世界に通用する高級料理としての一角を築いたのです。

そして、こういったニッケイ要素の人気に乗じて生まれたのが大衆向けのニッケイフュージョン料理です。日本への出稼ぎを経験した日系人やペルー人が、ラーメン、かつ丼、カレー、餃子のような現代日本料理をペルーに輸入しました。リマに店を構えるラーメン屋NARUTOは、鉄腕アトムやワンピースのルフィ、ドラえもんキン肉マンなどの人形が飾られており、アニメ文化ごとクールジャパンを表現しています。私のような生粋の日本人からすると「なんとも雑多な(笑)」という印象ですが、これぞ海外から見たJapanなのでしょう。 


This photo of Naruto Japanese Food is courtesy of TripAdvisor

 

まとめ

ペルーで生まれた和食要素をもつ料理についておわかりいただけたでしょうか。

最初の日本からの移民の食傾向を受けて育った日系2世がニッケイ料理を作り、和とペルーの融合に世界の美食家らが高い文化的価値を見出しました。その流行に乗って、より洗練された板前文化をペルーに持ち込むことでニッケイフュージョン料理が生まれ、大衆にもラーメンのような和の食文化がもたらされ始めました。最後にもう一度、図を示しておきましょう。

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新しいペルー料理と和食との歴史的な関わり

このように食文化史から料理を分類しなおすことで「文化的価値の高い食」がどのようなものなのかを考えることができたのではないでしょうか。また、和食が世界でどのように活躍しているかを知る契機にもなったはずです。

より深く勉強したいという方は、今回の記事投稿にあたって参考にさせて頂いた、柳田利夫先生の『ペルーの和食 やわらかな多文化主義』をご覧ください。時系列に沿って、より詳細に日系人たちの食と生活がまとめられています。

 

フレンドファンディングについて

長い文章になりましたが読んでいただきありがとうございました。

さて、前回の記事にも書かせていただいていますが、私はペルー渡航にあたってフレンドファンディングでの資金調達を行っています。

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私は大学院修士論文提出後の3月に、17日間ペルーに滞在して料理技術を探訪する旅に出ることにしました。

本当は内定先への入社時期を10月にして4月にバイトで資金調達、5~7月にペルー滞在という形式にしようと思っていたのですが、オリンピックでバタバタする関係か、内定先から4月入社に変更するように通達が来ました。なので、特に資金面で出発準備が整わないままの緊急発進になりました。

現状、知り合いの叔父が経営するペルーのレストランの厨房見学ができるかもしれない点、食文化博物館が無料で観覧できる点などが頼みの綱ですが、現地での書籍購入にかかる費用や、そもそも料理を食べる費用がない状態です(大学院の研究の傍らバイトで貯められる資金では、ペルーで1日当たり500円くらい使えるのがやっとで、超安宿の宿泊費だけで消えてなくなってしまいます…)。

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前回の投稿でPolcaから5000円、直接手渡しで5000円の計1万円の支援をいただきました。ことをお伝えしましたが、本日さらにPolcaで5000円の支援を頂き、一日当たり1100円ほど使えるようになりました。本当にありがとうございます…!現段階でも、いろいろ覚悟して野宿や断食やらで数日節約すれば、クイ(天竺ネズミ/モルモット)やアルパカを使った中級層の料理も報告できるかもしれません。

しかし、日本でペルー人経営の料理屋を訪問しての体感ですが、やっぱりその店の料理を食べなければ詳しい話を聞くことはできません。おそらく市場でもいくつか商品を購入しない限り、カタコト日本人を相手にしてくれはしないでしょう。日本みたいに「アルパカの試食どうですか~」なんて文化があればいいのですが…。どうしても、資金不足な状態では仕入れられる情報に限界が伴います。

まだまだ資金は足りない状況ですが、キッチンの使える安宿に泊まって、現地のレシピブックや市場の生産者から聞いた方法で料理をしたり、あるいは、自分で作った料理をペルー人に食べてもらったりすることでより濃密なアナログ知識を仕入れたいと思っています。

下記リンクより趣旨や支援のお返し等の詳細をご覧いただけます。

ご協力いただけますと幸いです。

polca.jp

これから何度かフレンドファンディングの声かけをすることになりますが、温かく見守っていただけると嬉しいです。進捗もその都度報告しつつ、そろそろ、資金計画や行程表も発表したいと考えています。

それではまた次回!お読みいただきありがとうございました。