ゴキブリは食材となりうるか?食文化講義1
El saber es amar
~文化人類学という視点から食材を見直してみる~
このブログでは、文化人類学という側面から「食」を解体し、今までのぼやっとした食文化観を見直すことも目標にしています。そうすることで、より美味しく、新しい料理を生み出せるような土壌を築くことができると考えました。
時には、ちょっと変わった視点から、時には慣習にのっとって、読者の皆さんに他の線でいただけるような記事をまとめていければと思います。
さて、ペルー、エクアドル、トルコ料理のようなマイナー海外料理を売りにする飲食店経営者にとって「食べ物とは何か」という料理哲学を持っておくことは非常に重要です。そういった素養がきちんとあれば、メニュー考案や紹介文作成、価格設定といった頭を悩ませる周辺業務を行う助けになりますし、何より食材を扱う楽しさが倍増します!
こんなもの食材にできるわけがないと思っていた物にも新しい価値が見つかるかも?
食べ物の定義
さて、『ゴキブリは食材となりうるか?』という、なかなかグロテスクな記事タイトルを設定しましたが初めに「食べ物」を定義する必要がありそうです。
古今東西で様々な食材が利用されてきたことに目を向けると、どうやら「食べられるもの」の中に「食べ物」がありそうだという包含関係があることに気づきます。
ヒ素や鉛が食べられないことに関しては異論はないでしょう。
一方で、「食べ物」ではないが「食べられる物」の具体例としてゴキブリと犬を挙げてみましたがいかがでしょうか。
朝鮮料理のポシンタンをご存じの方は「犬料理は存在するから食べ物のはずだ」と指摘されるかもしれません。
もっとマニアックな突き詰め方をしてみましょう。実は、イギリスをはじめ、中国・オーストラリアではゴキブリを食材として扱っていた時期がありました。ゴキブリを酢で茹でた後にペーストにしてパンなどに塗って食していたそうです(ヒヤリ)
果たしてゴキブリも食べ物でしょうか?
あれ…もしかすると人間も食べ物なんじゃないでしょうか??
文化による「食べ物」のふるい分け
いや、それは違う。というのがまっとうな答えです。
事実、現在のイギリス人に「君たちってゴキブリをパンに塗って食べるんでしょう?」なんて聞けば「そんな失礼なことを言うあなたの感性はゴキブリ以下ね」と怒って口をきいてくれなくなるでしょう。
もちろん、食べること自体が難しかった時代にはゴキブリは貴重なたんぱく源であったことに違いありません。しかし、飽食の時代に移行して採集や下処理に手間のかかるゴキブリを食べる必要もなくなり、ゴキブリが赤痢菌やサルモネラ菌を媒介する衛生動物であることがわかってからはこのような害虫を食べるのは危険な行為だというレッテルが貼られました。
すなわち、 時間の変化に伴ってその国の食文化(どのようにして食べるかという風習)が変化し「食べ物」であったゴキブリが「食べ物」ではない「食べられる物」へと移行したのです。
食文化が変わるきっかけ
もちろん、食べなかったものが次第に高単価な食べ物になるパターンもあります。
例えば、日本の飛騨や沖縄では一時期カタツムリを食べていましたが、寄生虫による感染症被害もあってカタツムリ食の文化は失われました。
その一方、フランスをはじめとする西欧で古来から食べられてきたエスカルゴは衛生管理が行き届いており味も優れていたため、徐々に日本に浸透しました。
最近ではサイゼリアのメニュー『エスカルゴのオーブン焼き』として6匹入りが399円で売られていますね。
市販でも1匹当たり20~100円程度で手に入ることから、おおよその原価を計算すると(業務用であればバジルソースも込みで安めに生産できるという仮定のもと)25×6=150円ですから、原価率は37.5%。
レストラン商材としては上々の出来です。
同じように、日本の寿司が「生で魚を食べるなんて考えられない」と言われていた海外で高級日本料理として売られ始めているのもその例です。
このことから言えるのは、現在ほとんどの人が食べない食材であっても「フランスの美食家が楽しむ食材エスカルゴ」「日本料理の伝統料理寿司」のように上手く場外の食文化圏からもってきてブランディングすれば、次第に食べ物として認知されてゆくということです。
つまり「食べ物」の枠は自在に大きくしたり小さくしたりできるのです。
食文化の枠を動かす料理で高単価を狙う
こうしてみてみると、「今まで食べられなかったものを「食べ物」の領域に引っ張り込めば儲かる料理を作れるのでは?」という発想に至ります。
例えば日本では犬猫の飼料用として加工されていることの多い牛肺(フワまたはフクともいう)は業務用で1kg当たり320~550円で手に入ります。
この牛肺を使ったペルー料理のチャンファイニータ(Chanfainita)を売るケースを考えてみると、2人前分の肉をたったの100円ほどで賄えることになります。副材料のジャガイモや各種調味料を加味しても2人前当たりせいぜい200円程度でしょう。これを700円の一品料理、あるいは土手煮のように小盛りにして300円で出せばそれだけで原価率29%という稼ぎ頭の誕生です。
また、太田哲雄さん著『アマゾンの料理人』では、ペルーのイキトス市でリクガメや猿、アルマジロなどが食材として売られていることにも触れられていました。少々夢物語が入りますが、これを法の目をかいくぐって日本の裏レストランなんかで売ってしまえば目の飛び出るような価格を平気で呈示できるはず。。。
このように、たとえ大抵の高級料理は食してきた日本人でも「これが知る人ぞ知る真の美食です」と言って珍しい食材を売り込めば、思わず食指が伸びるもの。この心理にアプローチするのはまた一つの手であるかもしれません。
ゴキブリは食材となりうるか?
では、頭の体操の時間です。
実店舗でゴキブリ料理を売れるかどうかを考えてましょう。
前提として、食用ゴキブリの入所経路が心配されますが、アース製薬などであやつらが研究用に無菌状態で飼育されており、爬虫類の生餌としてブリーディングする方法も確立されていることから、ひとまずその問題はないと仮定します。
思い付きましたか?
私なら次のような方法を試みます。
日本で売るなら、美味しく食べれるクオリティまで仕上げて昆虫食になじみのある土地で「世界の古代料理」として売り込みます。100人来店して1人でも注文してもらえればSNSで拡散されること間違いありません。そこに「思ったより美味しかった」のような投稿が加われば次から次へと挑戦者が現れることでしょう...。
ただ、ゴキブリ料理だけで収益を確保するのは難しいので、あくまでこれは客寄せパンダ。Gはあくまで客足を増やすための手段として、本業で稼ぐのがベストかも。
人は食べることを通じて何を摂取しているのか?
ここで至るのが「なんでゴキブリを口にするのに不快感が伴うのだろうか」という疑問です。「食べられる物」である限り我々の栄養になることは間違いありません。
文化人類学者の山本紀夫さんは、我々は食べると同時に文化的欲求までをも摂取していることを指摘されています。
分かりやすくするため、私自身で考えていくつか例を挙げてみます。
- ベジタリアンは野菜だけを食べることで、生命を思いやるという文化的欲求も食べている
- お金持ちなのにささみとブロッコリーばかり食べて糖質制限する人は、健康で筋肉質な体を維持するという文化的欲求も食べている
- 断食(ラマダーン)をするムスリムは、イスラム教世界からの承認という文化的欲求だけを食べている
こう考えると、何を食べて何を食べないかという食の選択行為そのものが食事という摂取行為の一つということがうかがえます。
逆に言うと、我々がいくら衛生的でも美味しいゴキブリ料理に抵抗を感じるのは、ゴキブリを口にすることで、何らかの文化的欲求を欠損するからだと考えられます。
もしそうだとすると、その「何らかの文化的欲求」(より高価なものを食べたい・みんなと同じものを食べたい・他人から清潔なイメージを持たれたい等の欲求)がそもそも無ければ我々は平気でゴキブリを口にするかもしれません。
あるいは、その「何らかの文化的欲求」よりもそれ以外の欲求(世界の食材を知るグルメでありたい・偏見を持ちたくない・珍しい食材を食べたことを他人に自慢したいなどの欲求)が勝った時には、満を持してゴキブリ料理を口にすることはあり得るでしょう。
まとめ
今回は、極端な例で記事を書きましたが、その心は、なんであろうと食文化という支点を介して「食べ物」にできるし、逆も起こるということを伝えたかったからです。
例えば、長野県で廃れつつあった昆虫食は、慶応大学の篠原祐太さんの活動を受けて見直されつつあり、昆虫が「食べ物」の枠に戻ってきつつあります。
逆に、発酵させて独特の匂いを有する日本の本格漬物は臭いといわれ、旨味調味液に浸しただけのさっぱり爽やかな簡易漬物にとってかわられ、「食べ物」の枠から追い出されつつあります。
こうやってみると、親しみの薄い食材にも色々なアプローチができそうですね。
ただし、なんでも簡単に食材として売れるというわけではなく、あまりに奇抜な食材を売るためにはそれ相応のテコ入れが必要なのは言うまでもありません。見えない相手の文化的欲求を上手くコントロールしてやる必要があるからです。